Kushiro Marshland 釧路湿原 交響的音画 / Akira Ifukube 伊福部昭

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「釧路湿原」は、ラムサール条約第5回締約国会議が釧路市で開かれることを記念して委嘱されたもので、1993年に発表された。伊福部昭は2006年2月8日に没したので、まさに晩年の作品である。そして伊福部昭が生まれたのも、当時は釧路町といった北海道釧路市である。故郷への思いを込めた渾身の作品だ。

おそらく伊福部昭は、この作品のすさまじいエネルギーを注いだに違いない。しかし、ここで聴くことができる曲は、どれも地味である。穏やかに始まり、穏やかに終わる。激しい盛り上がりをみせるような派手な部分はない。ひたすらゆっくりと。まさに自然の大きなうねりそのままに、おおきく揺れるように展開する。

「日本狂詩曲」や「リトミカ・オスティナータ」など伊福部昭の代表曲には共通点がある。土着的で汗がほとばしるような肉体的な感動がある。その最も肉体的な力強さを、わかりやすく大衆的に表現したものが映画「ゴジラ」のテーマソングであり、「SF交響ファンタジー」である。しかし、この「釧路湿原」では、伊福部昭の得意とするリズミカルな躍動感はない。ひたすら静かに脈打っている。

しかし、そのゆっくりと脈打ちうねる旋律は、伊福部昭がこだわったオステナートの力がみなぎっている。テンポは遅いが、執拗に繰り返されるフレーズは、じわじわと心の中に染み込んでくる。第1楽章「夏」にはじまり、「秋」「冬」「春」と四季を綴る4つの楽章を、すべて聴きとおしても30分ほどと短い曲である。うっかりすると、曲が終わったことも気づかないように、静かに終わる。だからこそ、深い余韻が残るのだ。何度か聴けば、もう、心の中に旋律が深く、深く刻まれる。

このCDはfontecから1994年に発売された。演奏は新星日本交響楽団、指揮は大友直人。日本盤だ。(20070131/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)
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Profile of Composer 作曲家の個展 / Akira Ifukube 伊福部昭

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fontecから発売されている伊福部昭の一枚である。このCDに収められているのは、「シンフォニア・タプカーラ」と管弦楽のための「日本組曲」である。CDのタイトルが「作曲家の個展」となっているのは、1991年9月17日にサントリー音楽財団が主催した「作曲家の個展'91」におけるライブ録音が収められているからである。

「シンフォニア・タプカーラ」は「日本狂詩曲」とならんで伊福部昭を代表する有名な曲のひとつである。現時点でもいくつかのCDが手に入る。ここでの演奏は、やはりライブなのだとおもわせられる演奏だ。緩急の具合、音のバランス、様々な点でライブ的である。

管弦楽のための「日本組曲」はサントリー音楽財団委嘱作品である。第1曲「盆踊り」は力強い肉体的リズムに導かれた、いかにも伊福部昭らしい曲である。第2曲「七夕」は、たいへんゆっくりした静かな曲である。第3曲「演伶」は「ながし」と読み、日本的なメロディーで構成される。第4曲「佞武多」で「ねぶた」と読み、弘前のねぶた祭の印象をもとに書かれた曲らしい。

「日本組曲」を聴いていると、伊福部昭という作曲家は、終生を通じて一つの表現を突き詰めていった人なのだと思う。このCDは1995年に発売された日本盤だ。演奏は新日本フィルハーモニー交響楽団、指揮は井上道義である。(20070130/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

L'Oeuvre pour piano / Erik Satie

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エリック・サティを初めて聴いたのは、アルド・チッコリーニのピアノだった。当時はLPレコードで、3枚のシリーズだった。それ以来、何人ものピアニストによって演奏されるサティを聴いてきたが、やはり最もしっくりくるのは、このアルド・チッコリーニの演奏である。他のどの演奏を聴いても、早すぎていると思えたり、遅すぎると思えたり、力が入りすぎていると思えたり、意識しすぎると思えたり。記憶の底に刻みつけられているためかも知れない。いくら録音が古くても、この演奏に代わることができるものは、どこにもない。

エリック・サティといえば、やはり最も有名なのは「3つのジムノペディ」であろう。テレビのCMや番組の中で使われることもある曲だ。もちろん「ジムノペディ」は良い曲だし思い出もある。しかし、俺がもっともエリック・サティを感じるのは、「4つのオジーヴ」である。この和音には、神々しさすら覚える。

LPレコードで何度も聴いた曲の数々、そしてレコードには収められていなかった曲。いつまでも聴き続けたいアルバムである。276分19秒という時間の中に、エリック・サティのピアノ曲の主要なものをすべて聴くことができる。エリック・サティを味わうためには、このボックスセットが決定盤だ。

EMIフランスから発売された、5枚組のCDセットである。もとは1967年から1971年にかけて録音されたものであり、CDとしては2001年に発売された。フランス盤である。(20070127/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

Complete Piano Works / Federico Mompou

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フェデリコ・モンポウの名前を知ったのは、やはりNAXOSだった。しかし、それは、NAXOSのCDを聴いたのではない。落ち付いて聴けるピアノ曲を探していたとき、マニュエル・ブランカフォートのCDの解説を読み、「彼は青年時代に出会ったモンポウに大きな影響を受けました」や「特にモンポウの音楽をお好みの方は、必携・必聴にしていただきい一枚です」、「交流もあり、大いに影響を受けたモンポウの素朴な音楽と、かなりの程度類似性があることは確かです」といった文に印象が残っていた。そして出会ったのが、この4枚組のCDだった。

モンポウの音楽は、真摯である。クロード・ドビュッシーやエリック・サティといった印象派のピアノ作品と同じ傾向だが、訥々としたフレーズは独特である。気取ったところがない。ストイックであるのだが、冷たくはない。そして、冬にこそふさわしい。

そして何よりも、このCDでピアノを弾くのは、フェデリコ・モンポウ自身である。録音は1974年である。モンポウは1893年に誕生したので、81歳のときの演奏ということになる。なるほど、なんとも味わい深いはずである。CDを4枚聴き通せば、280分50秒にもなるモンポウの世界を、存分に味わうことができる。

それにしても、Brilliant Classicsも良い音楽を安価で提供してくれる。しかし、このボックスセットは、HMVでは「受注生産」となっている。もしかしたら今出ているものが売れてしまえば、入手困難になるかもしれない。(20070126
/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

Phlegra, Jalons, Keren, Nomos Alpha, Thallein / Iannis Xenakis

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「フレグラ」と「ジャロン」、「ケレン」、「タレイン」はヤニス・クセナキスの晩年の作品である。「フレグラ」はグルベンギアン財団の委嘱によりロンドン・シンフォニエッタのために作曲され、1976年に初演された。「タレイン」は1984年に、「ジャロン」と「ケレン」は1986年に作曲された。

「フレグラ」は4つの木管楽器、3つの金管楽器、そして4つの弦楽器による室内オーケストラの作品である。意表をついた音の連続で、めまぐるしく場面が展開する部分と、同じフレーズを執拗に繰り返す部分の対象的なパートが織り交ぜられる。華麗に音が展開する部分は、楽器を旋律ではなく音の塊として組み立てた、エドガー・ヴァーレーズの作風に似ている。いかにも現代音楽らしい曲であるが、フレーズが耳慣れない、あるいは耳障りといってもしれないものであるが、音楽の基本的な要素は何ら変わりないものであり、よくよく考えてみれば、通常の室内音楽と同じように楽しめる作品である。

「ジャロン」は15の楽器による室内楽曲である。この曲では極端なリズムと旋律、繰り返しの作用が曲を特徴づけている。通常の楽曲においては使われないだろう極低音を執拗に発するところなど、偏執的である。難しく考えることなく、この極端な作曲法にユーモアを感じて、素直に楽しむのが正しい聴き方だろうと思う。音楽の常識にとらわれなければ、この曲の面白さを味わえるはずだ。

「ケレン」はトロンボーン独奏による作品である。この曲でも、極端に高い音から低い音へ落ちたり、グリッサンドや微分音、汚い音、スタッカートの執拗な連続、楽器の限界に至る極低音、オクターブ音へのトリル、トロンボーンという楽器を様々に使いつくした音で構成されている。国際トロンボーン協会の委嘱により、Benny Sluchinのために作曲されたとのことで、このアルバムでの演奏も同じ奏者である。このような曲は、奏者によって全く違った様相を見せるだろう曲であるが、それにしても、どのように楽譜で指示されているのかも興味深い。

「ノモス・アルファ」は1965年にジークフリート・パルムのために作曲された曲である。ここでもチェロという楽器の可能性を、隅々まで使い尽くしたというような演奏がみられる。せわしない作品である。聴きなれた奏法ではないだけに、チェロという楽器の発する音が、なるほど、こういう音がするのか、と思わせられるところがある。しっかりとしたオーディオセットとそれにみあった空間を持つ部屋で、じっくりと聴き込んでみたい曲であり録音である。チェロの演奏はPierre Strauch(ピエール・ストローク)である。

14の楽器による室内楽作品である「タイレン」は、まず冒頭の音塊に圧倒させられる。クセナキスの作品らしからぬ、と言っては変なのだが、たいへんドラマチックな曲である。もちろん、クセナキスの作品であるので、凡庸な旋律で構成されているわけではないのだが、全体としてアンサンブル感があるし、緩急と抑揚をもった曲である。この曲を聴くだけでも、このCDの意味がある。

ちなみに曲のイメージをふくらますために書き記せば、「フレグラ」は巨人族とオリュンポスの神々との戦いが行われた戦場の名前、「ジャロン」は「道しるべ」、「ケレン」はヘブライ語で「角」、「ノモス」は「規則」や「法則」あるいは「旋法」、「タレイン」はギリシャ語で「芽生え」を意味する言葉である。

録音は1990年から1991年の間にパリで行われた。「フレグラ」と「ジャロン」、「タイレン」はアンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏であり、「ジャロン」はピエール・ブーレーズの指揮による。ワーナー・ミュージック・ジャパンから「ブーレーズ・コレクション10」というシリーズで発売された日本盤であり、日本語の解説がついているのがありがたい。(20070125/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

Pleiades / Iannis Xenakis

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合奏曲における各楽器の相互作用とは何だろうか。この6つの打楽器による「プレイアデス」では、打楽器の相互作用に関して様々な試みが行われている。

「Melanges」では、それぞれの打楽器は自分勝手にきままに演奏しているように思える。自分の内面のリズムにのみ従ってリズムを刻み続けているのだが、しかし他の打楽器に全く耳を貸していないわけではない。微妙なシンクロの瞬間が時折訪れる。そしてそれら気ままな楽器たちが、全体として一つの楽曲を構成し、統一のとれた音空間を作っていることがおもしろい。その統一感は曲の後半部に1度、そして最後に2度目の結論が出され、意識的に披露される。

「Metaux」は「Melanges」と異なり、楽器の相互作用が積極的に利用されている。曲の冒頭では、打楽器のリズムが揃っているようで微妙にずれている。そのずれ具合は偶然性によって支配されており、カオス的な現象によって影響を受ける。たとえば微妙な周波数の違いによって2つの音がうねりを生ずるように、打楽器のリズムがうねりを持って重なり、新しい第3のリズムを生み出すようだ。そして打楽器たちは、さまざまなバリエーションを積み重ねながら、錯綜する。

「Claviers」では、より打楽器の相互作用は意識的に行われる。打楽器たちは、互いに相手の演奏に無関心をよそおいながら、ゆるやかな統一に向かったり、また散り散りになったりする。

「Peaux」はプリミティブなドラムで始まる。ここでも打楽器は完全なひとつのリズムを形成するというのではなく、危ういバランスを保ちながら、しかし、これまでの3曲よりは強い相互作用によって結ばれている。野性的なドラミングは、祝祭的であり、呪術的なエネルギーを感じさせるものだ。曲の終焉に向けては、次第に相互作用は強くなり、最後には感慨深い大きな一体感をもって完結する。

スティーヴ・ライヒがミニマル・ミュージックのひとつの究極形である「ドラミング」を作曲したのは1971年である。そして、この「プレイアデス」が作曲されたのは1978年である。クセナキスがライヒの「ドラミング」を聴いたかどうかはわからないが、「プレイアデス」にはミニマル・ミュージックの影響がうかがえるとともに、ポリリズムの概念が取り込まれている。

あまり一般的ではない打楽器アンサンブルという形の曲であるが、クセナキスの作品としては意外性の少ないものといえるかもしれない。このCDは1996年にharmonia mundiから発売されたドイツ盤だ。もとは1987年に発売されたもののようである。(20070124/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

Eonta, Metastasis, Pithoprakta / Iannis Xenakis

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「メタスタシス」は1953年から1954年に作曲され、1955年のドナウエッシンゲン音楽祭でクセナキスのデビューを飾った曲である。「メタ」は「after」、「スタシス」は「fixed state」、そして「メタスタシス」は「dialectic transformation」、弁証法的な変化、対話を通じて、相互作用を通じて変化する、といった意味を持っているようだ。61のオーケストラ楽器は、極端に細分化され、61の異なるパートを演奏する。まさに、それぞれの楽器が勝手気ままに演奏しているかのようである。しかし、だからこそある瞬間に、すべての音が一つの方向に向かって進むところは圧巻である。

「エオンタ」はピアノ、2つのトランペット、3つのトロンボーンによる作品である。1963年から1964年にかけて作曲された作品で、冒頭のピアノソロなど特定の部分以外は、IBMの7090コンピュータの計算によって作られた。コンピュータで計算された、というと、冷たいイメージを持つが、実に荒々しい曲である。もちろんコンピュータを計算させるためには、ある意図をもってアルゴリズムを書くのだから、いかに作曲家の意図通りの作品が出力されるアルゴリズムを書くか、ということが課題であっただろう。この曲の、崩壊してしまいそうな危ういバランスは、コンピュータによって偶然性が適用されるアルゴリズムが与えた効果ではないかと思わせられる。ピアノは高橋悠治である。

「ピソプラクタ」は1955年から1956年に作曲された、46の弦楽器と2つのトロンボーン、シロフォン、ウッドブロックの50の楽器によるオーケストラ作品である。1957年の3月にミュンヘンで行われたムジカ・ヴィーヴァ音楽祭で初演され、その指揮をとったヘルマン・シェルヘンに捧げられている。この曲では弦楽器は、楽器の本体を手で叩くことや「コル・レーニョ」と言われる弓の棒で弦を叩く奏法、ピチカートといった極端に短い音と、グリッサンドによる長い音の、対象的な音の組み合わせを試みている。短い音が集まり、小さな昆虫が集まって巨大な群集となったような異様さがある。

このCDに収められた曲は、クセナキスの初期にあたる作品たちだ。どの曲も個性的である。ただ、これらの音楽を楽しめるかどうかは、聴き手の姿勢にかかっていると言えるかもしれない。録音は1965年に行われたもののようであるが、今聴いても全く新しさを失っていない。このCDは2001年にLU CHANT DU MONDEから発売されたもので、ドイツ盤だ。クセナキス初体験としてもお勧めである。(20070123/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

Music for Prepared Piano, Vol.2 / John Cage

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プリペアード・ピアノのための音楽は、かなりCD化されていることがわかった。たとえばHMVのオンライン・ショップで「Prepared Piano」をキーワードに検索すると17件、アマゾンでは22件、タワー・レコードでは32件もヒットした。ほとんどがジョン・ケージの作品だが、黛敏郎の「プリペアード・ピアノと弦楽のための小品」というアルバムもあった。「Hauschka」というバンドの「Prepared Piano」というアルバムもヒットしたが、これはポップスのようだ。実は「プリペアード・ピアノのためのソナタとインターリュード」を他の演奏も聴いてみたいと思って検索したのだが、これほど多くのCDがあるとなると、ちょっと手に負えない。

それはそうと、演奏家は通常、自分の楽器を持って演奏に臨むわけだが、ピアノという楽器は違う。自分のピアノを持って演奏に行くのではなく、会場にあるピアノを使うのが通常だろう。だからこそピアノは、誰が弾いてもちゃんとした音が出るように「調律師」という職業がある。もしプリペアード・ピアノの音楽がもっと市民権を得ることができたなら、プリペアード専門の調律師といった職業が現れるかもしれない。

このCDは、NAXOSから発売されたジョン・ケージの「プリペアード・ピアノのためのソナタとインターリュード」の続編にあたる企画ものだ。「危険な夜」という曲が第1番から第6番まで、それ以外はそれぞれタイトルのついた小品になっている。このタイトルが面白い。「孤島の娘たち」「ピンボケの泉」「...の思い出せない記憶」といった具合だ。「マルセル・デュシャンのための音楽」というのもある。

「プリペアード・ピアノのためのソナタとインターリュード」と比べて、リズムの面白さを前面に出した、ユーモアのある作品が多く、もしかしたら初めてプリペアード・ピアノの音楽を聴くには、こちらの方が楽しめるかもしれない。「孤島の娘たち」や「プリミティブ」、「不思議な冒険」、「かくて大地は再び実を結ばん」、どれも面白い。そして最もよかったのは「危険な夜」の「第6番」だ。誰かにプリペアード・ピアノの音楽を聴かせるときは、まずこの曲を聴かせることにしよう、と思う。

ピアノ演奏はBoris Berman(ボリス・ベルマン)。録音は1999年12月、カナダ、オンタリオ、ニューマーケットのセント・ジョン・クリソストム教会で行われた。2001年にNAXOSから発売されたCDだ。(20070120/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

Sonatas and Interludes for Prepared Piano / John Cage

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先日、仲のいい何人かの友達で知人の家にうかがったとき、何も言わずにステレオのプレイヤーにこのCDを入れ、小さな音でかけてみた。そこに集まった友人たちは、めいめいにお喋りを楽しみながら、控え目な音で流れる音楽に気がつかずにいたのだが、しばらくして年配の知人が「これはなんていう音楽だ。なかなかいいじゃないか。」と言ってくれた。

「プリペアード・ピアノ」という言葉がまだ目新しかった頃は、その加工された独特の音色に興味を惹かれ、どんな小さな音色でも聴き逃すまい、と神経を集中して聴いていた。それは意味のあることではあるが、目を三角にして熱く真剣に聴くだけではなく、小さな音で軽く聞き流すのもなかなかいいものだ。どんな異物がピアノの弦に挟まれているのだろうかとか、なぜこんな音がするのだろうかとか、そういったことも考えることなく、素直に奇妙なピアノの音色を楽しめばよい。

NAXOSは現代音楽に限らず、意欲的に様々な音楽を録音し発売することで有名であり、価格も安いということもあって現代音楽ファンには目を離せないレーベルである。この「プリペアード・ピアノのためのソナタとインターリュード」も、安価でしかも入手しやすいといった、嬉しいCDである。あまり現代音楽を聴いたことがない人、難しいのではないかと先入観を持っている人には、ぜひ入門編としてこのCDを勧めたい。もちろん、現代音楽にどっぷりと浸かったファンにも聴いてもらいたい。

このCDは、NAXOSから1999年に発売された、ユーロ盤だ。ピアノはBoris Berman(ボリス・ベルマン)。録音されたのは1998年7月。カナダ・ニューマーケットのセント・ジョン・クリソストム教会においての演奏だ。(20070119/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

Aus den sieben Tagen ( Fais voile vers le soleil, Liaison ) / Karlheinz Stockhausen

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「7つの日より」と訳されるカールハインツ・シュトックハウゼンのAus den sieben Tagenは、15の曲からなる「直感音楽」である。この「直観音楽」とは、普通の作曲のように五線譜によって音程や音長さを記述するのではなく、テキストによる指示によって曲を構成するというもので、音楽に不確定性を持ち込む究極の手法だといわれる。

「7つの日より」を構成する15の曲はそれぞれ「RICHTIGE DAUERN (正しい持続)」、「UNBEGRENZT (無限に)」、「VERBINDUNG (結合)」、「TREFFPUNKT (合流点)1 and 2」、「NACHTMUSIK (夜の音楽)、「ABWARTS (下方へ) 1 and 2」AUFWARTS (上方へ)」、「INTENSITAT (強度)」、「SETZ DIE SEGEL ZUR SONNE (太陽に向かって帆を上げよ)」、「KOMMUNION (聖体拝領)」、「ES (それ) 1 and 2」、「GOLDSTAUB (金粉)」である。このCDには曲名が「Fais voile vers le soleil」と「Liaison」とフランス語で書かれており、これは「太陽に向かって帆を上げよ」と「結合」であるのだろう。

確かに通常の「楽譜」とは、音楽を記録する方法を持たなかった時代に、作曲された音楽をできるかぎり忠実に再現する方法として考えられたものである。しかし録音技術が発達した今日において、作曲家の意図通り忠実に音楽を再現する方法は、必ずしも楽譜によって記録されなくとも可能である。また五線譜では表現しきれない可能性を持った楽器、シンセサイザーの登場によって、新たな音楽の記録方法が必要になったということもあるだろう。

しかし「直感音楽」と名付けられるものは、果たして一個の「作品」として成立するものなのだろうか、という疑問は残る。実際に「直感音楽」として記述された楽譜を見たことがないのでなんとも言えないのだが、テキストで記述された楽譜に基づいて演奏する、という行為において、本当に作曲者の意図通りの演奏がなし得るのだろうか。また「不確定性」を持ち込むことが、そもそも曲の曲たる構成要素を無意味にしてしまうのではないだろうか。

ジャズやロックなどインプロビゼーションを重用視する音楽においては、そもそも曲のスタイルは、ある種「音楽の器」でしかなく、実際は演奏者の技法こそが音楽を楽しむ最も大きな要素であると言えるのだが、その意味ではこの「直感音楽」も、作曲者の決めたことは単なる器でしかなく、実際の演奏者の技法を楽しむものなのかもしれない。

極めて抽象度の高い音楽であるので、はじめて聴く人には驚きを感じるだけで終わってしまうかもしれない。そして必ずしも受け入れられるものではないのかもしれない。しかし様々な楽器による音が電子的に加工され、空間を立体的に構成された中に身を任せると、それは決して不快なだけのものではないことに気付いていく。楽器と楽器が互いに影響を与えながら、ひとつの音楽を構成していくさまは、音の使い方が通常ではないだけで、曲全体としては室内楽曲であることに変わりはない。

演奏は、Aloys Kontarsky(piano)、Michel Portal(clarinet in E flat,basset horn,bass clalinet,tenor saxophone)、Johannes G. Fritsch(viola)、Alfred Alings(tam-tam)、Rolf Gehlhaar(tam-tam)、Harald Boje(electronium)、Jean-Pierre Drouet(percussion:darabuka,two tam-tams,cymbals,crotales,cow-bells)、Jean-Francois Jenny-Clark(double bass)、そしてKarlheinz Stockhausen(filters and potensiometers)、Claude Ermelin(recording engineer)、Diego Masson(artistic director)となっている。

このCDは1988年にharmonia mundiから発売された、西ドイツ盤だ。フランス語表記がわかりにくいのだが、1969年にパリのDavout Studioで録音されたと書いてあるようだ。1970年にレコードで一度発売されたものらしい。(20070118/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

Wandlungen Chamber Music / Caspar Rene Hirschfeld

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カスパール・ルネ・ヒルシュフェルトの音楽は、昨日紹介した「Solitudes」と、このアルバムの2枚を聴いた。いずれもCol legnoから発売されているもので、「Solitudes」も面白かったが、こちらのアルバムはもっと楽しめた。

1曲目のピアノとパーカッションのための「ソネット第5番」はまるでハーモロディクスだ。いきなり始まるドラムとピアノの音の洪水に明らかである。一般的なドラムキットとピアノのデュオなのだが、ドラムがリズムでピアノがメロディー、というわけではない。ドラムとピアノの両方が、リズムとメロディー、ハーモニーの渾然一体となった演奏を試みている。そして曲の中間部ではドラムキットは下がり、どんな楽器なのか判然としないパーカッションが現れる。楽器の姿が見えないからこそ、想像力をかきたてられて面白みが倍増する。そしてピアノもリズムを意識した演奏となり、パーカッションとピアノがリズムの面白さを競うのである。曲の最後は力強いリズムで締めくくる。潔い。

2曲目はアルバムタイトルにもなっている、オーボエ、チェロ、ハープのための「さすらい第3番」である。原題は「Wandlungen」であり、この言葉は単に「変化」という意味も持っているので、もしかしたら「さすらい」と訳すのは考えすぎなのかも知れない。この曲は最初と最後に同じテーマが用いられ、それに挟まれて3つのモチーフが試みられる。まず最初にあらわれるのは、けつまづきそうな危うさを感じるもので、さしずめ「夢遊病のバンドルンゲン」である。次に現れるのは、静かに落ち着いた様子の、いわば「思索するバンドルンゲン」だ。そして3つめは、軽やかな雰囲気の「舞い踊るバンドルンゲン」といったところか。

3曲目のクラリネット、ビオラ、チェロ、ピアノのための「ソネット第11番」は、ピアノとバイオリンがリズムを先導する。そして後半部では何かの物を叩く音が使われるのだが、この音がとても良い響きなのだ。かなり激しい音がして、もしこれが楽器を叩く音だとすれば、楽器が大丈夫なのかと心配になるほどだ。この曲に限らないのだが、カスパール・ルネ・ヒルシュフェルトはリズムや打楽器の音にこだわる作曲家なのに違いない。

そしてこのCD最大の聴きどころは、4曲目の「夏の夜のバリエーション」である。曲の冒頭からジャングル・ドラム風の無造作な打楽器があらわれ、そして拍子抜けするような美しい、そしてなぜか懐かしいハープのメロディーが重なるところが意外である。このハープは、訥々としたものであり、調性がとれているようで、千路に乱れるような危うさがある。ああ、このメロディー。なんて美しいのだろう。一度耳にするだけで、永遠に心に残るメロディーだ。

そして、また、自己完結的なドラムが無造作に割り込んでくる。今度は分裂的なドラミングだ。そしていくつかのバリエーションが紡ぎつづられ、最後はまたジャングルドラムからハープの調べにもどっていく。美しい冒頭のメロディーが再びあらわれる。そしてここでは、もはやドラムは粗暴ではない。完全にハープの僕となり、ともにひとつの音楽を形作っている。もはやここには意外さはなく、完全なコンビネーションをとって完結する。まるで、音によるひとつのドラマを、「夏の夜」という言葉に集まった音たちによるドラマを見たようだ。

どうだ。聴きたくなってきただろう。はっきり言ってこのCDは「夏の夜のバリエーション」を聴くだけでも価値がある。ぜひ、ちゃんとしたオーディオセットで、ゆったりと深いソファーに座りながら、心ゆくまで聴きたいものだ。

このCDは、現代音楽を専門とするレーベルCol legno(コル・レーニョ)から2003年に発売された。(20070117/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

Solitudes / Caspar Rene Hirschfeld

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「魔境」の第1楽章「Prelude」のピアノ第1音に全身全霊を集中せよ。そうすればヒルシュフェルトの作りだした永遠の時間を手にすることができるはずだ。これ以上は説明しない。自分の耳で確かめろ。そして永遠の時の狭間から次第に魔境がその姿を現してくる。魔境の中へ誘われ、その耽美な世界を味わい尽くせ。

第2楽章「Scherzo」では、一転して弾けるピアノ、そして叩かれて目を覚まさせられる。魔境の世界から現実の世界へと我に返る。ドビュッシーのような印象派的フレーズ。しかしここは本当に現実の世界だろうか。そう思う間もなく第3楽章「Funeral March」で再び魔境へと引き戻される。

第4楽章「Interlude」には構成美がある。摩天楼の果てしない螺旋階段を登るように、構成されたフレーズがリズミカルに駆け上がっていく。第5楽章は「Air」では、訥々とした音で表現された空間の中に、次第に怪しの霞が立ち込めてくる様子が描かれる。

第6楽章「Dance」は、ジャズのベースラインが用いられている。よろめきながら、ときおり痙攣するように舞い散るダンス。そして曲は途切れることなく最後の第7楽章「Postlude」へと続く。そして静かに魔境は、闇の中へと沈み込んでゆく。

「Makyo 魔境」と名付けられた7つのピアノ曲は、日本語の「魔境」からイメージを取られた作品だ。カスパール・ルネ・ヒルシュフェルトは自らの言葉で「Makyo」と題したことについて、「Japanese: visions, evoked by deep meditation」とCDの解説で語っている。「深い瞑想に呼び起こされた幻想」。つまり、頭の中に作られた架空の世界、というようなかんじか。ピアノはAndreas Gobel(アンドレアス・ゲーベル)。

「Chant of the Night」は独唱、というよりも独白に近い声楽曲だ。歌詞に用いられているのは、Walt Whitman(ウォルト・ホイットマン)のLeaves of Grassという詩からとられている。現代音楽でも声楽曲は苦手なのだが、この曲は楽しめた。歌詞がついているものありがたい。ソプラノはGrit Diaz de Arce(グリッド・ディアス・デアルチェ)。

最後の「Solo」はバス・クラリネットの独奏曲。演奏はMatthias Badczong(マティアス・バーデツァング)。このアルバムに収められた曲はすべて独奏曲であり、アルバムタイトルの「Solitudes(孤独)」が示しているように、そしてホイットマンの詩、夜の草原に佇み、自然と一体になる男の詩が示しているように、これらの曲を貫くひとつのテーマが「孤独」である。

これらの曲は1998年8月の5日と6日に、ベルリンで録音され、現代音楽を専門とするレーベルCol legno(コル・レーニョ)から2001年に発売された。(20070116/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

The Piano Concertos, Fourteen / John Cage

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プリペアード・ピアノが使われている、ということを聞かされていなければ、これがピアノ・コンチェルトであるとは思わないだろう。ジョン・ケージの「プリペアード・ピアノのためのソナタとインターリュード」では、ピアノ一台でより多くの表現を持たせるためにプリペアードを行ったが、「Concerto for Prepared Piano and Chamber Orchestra プリペアード・ピアノと室内楽団のためのコンチェルト」では、ピアノは打楽器として音楽の中に構成されている。

それにしても「疎」な音楽である。どの楽器も短く断続的なフレーズを中心に奏でており、音と音の間の疎な空間が、それぞれの音を際立たせている。また深めに与えられた残響が、さらに疎な空間を引き立てている。それ故に、突然大きな音がすると、構えができていないだけに驚きもひとしおである。どうやらエフェクトもかけられているようであり、控え目であるが電子的な加工音も時折まじる。

「Concerto for Piano and Orchestra ピアノとオーケストラのためのコンチェルト」で使われているピアノは、いわゆるプリペアード・ピアノではないようである。しかしピアニストのDavid Tudorには、piano and live electronicsと書かれている。何らかの電子的な処理がされているようにうかがえる。しかし、オーケストラの楽器群も、それぞれに尋常ではない奏法が使われているので、いったいどの音がピアノであり、ライブエレクトロニクスであり、また、その他の楽器なのか判然としない。そこがまた面白いところである。曲の終盤には、激しいエフェクトがかけられた部分があり、驚かされる。

「Fourteen for Piano solo and Ensemble ピアノ・ソロとアンサンブルのためのフォーティーン」は、13の楽器とソロ・ピアノ、すなわち14の楽器による音楽である。この曲では、どの楽器も単純な一定の高さの音しか出さないこととしている。極限まで単純化された音の使い方だ。この曲でもプリペアード・ピアノは使われていないが、いったい聴きなれたピアノの音はどこへ行ってしまったのだろうか。実はこの曲では、ピアノは鍵盤を叩かれるのではなく、弦で弾かれるのである。ピアノに打楽器的な要素を加えた「プリペアード・ピアノ」とは全く反対側にあるコンセプトだ。ピアニストのStephen Druryにはbowed pianoとクレジットされている。

「Concerto for Prepared Piano and Chamber Orchestra」はstephen drury(スティーブン・ドゥルーリー)のプリペアード・ピアノ、Callithumpian Consort of New England Conservatory演奏、Charles Peltz(チャールズ・ペルツ)指揮。「Concerto for Piano and Orchestra」はDavid Tudor(デイヴィッド・チューダー)のピアノとライブ・エレクトロニクス、Ensemble Modernアンサンブル・モデルンの演奏、Ingo Metzmacher(インゴ・メッツマッハー)指揮。「Fourteen for Piano solo and Ensemble」はstephen drury(スティーブン・ドゥルーリー)のピアノ、Callithumpian Consort of New England Conservatory演奏、stephen drury(スティーブン・ドゥルーリー)がディレクターを務める。

アンサンブル・モデルンは1980年に結成されたヨーロッパで最もよく知られた現代音楽の演奏集団だ。Concerto for Prepared Piano and Chamber Orchestraも現代音楽、特に前衛的な音楽の演奏集団で、ジョン・ケージやカールハインツ・シュトックハウゼン、ジョン・ゾーンの音楽をとりあげているという。

このCDは1997年にmode recordから発売された米盤だ。「The Complete John Cage Edition, Volume 16」である。各曲の解説が英語、フランス語、ドイツ語で書かれている。これを読みながら聴くと味わい深さがさらに増す。(20070113/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

Kammermusik / Ladislav Kubik

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ラジスラフ・クビークは1946年生まれのチェコスロバキアの作曲家だ。この室内楽作品集には、「弦楽四重奏曲第一番」、「バスクラリネットとピアノ、パーカッションによる2つのエピソード」、「ピアノのための音楽」、「フルートとギターのための2つの音楽」、「バイオリンとチェロ、ピアノの三重奏曲」、「Wrote - メゾソプラノとオーケストラのための3つの歌曲」、そして「管楽8重奏のためのディヴェルティメント」という多様な作品が収められている。

中でも一番のお勧めは、トリオ・リヴィニウスの演奏による「バイオリンとチェロ、ピアノの三重奏曲」だ。ユーモアがあって変化に富み、思わず小躍りしたくなるような作品だ。俺は通勤途中の電車でこれを聴いていて、笑みがこぼれるのを抑えきれなかった。周囲には変な人だと思われたに違いない。

トリオ・リヴィニウスは、1961年生まれのバイオリニストSiegfried Rivinius(シーグフリード・リヴィニウス)、1965年生まれのチェリストGustav Rivinius(グスタフ・リヴィニウス)、そして1970年生まれのPaul Rivinius(パウル・リヴィニウス)の3兄弟によるトリオだ。1977年に創設され、1989年には最初のCDを録音したとある。

もうひとつのお勧めは、「管楽8重奏のためのディヴェルティメント」である。原題は「Divertimento fur Blaseroktett」であり、「管楽8重奏のためのディヴェルティメント」と訳すと思われるが、音楽を体系的に勉強したことはなく、ドイツ語にも不案内であるので、もし間違いであれば指摘していただきたい。これもユーモアがあり、難しく考えることなく素直に楽しめる作品だ。

余談だが、実はこのCD、買ったときに傷が入っていて、面白いと思った「ディヴェルティメント」でプツプツとノイズが入るものだった。買った店で交換してもらっても良いのだが、面倒なのと特価品だったので申し訳ないこともあって、研磨剤を使って自分で磨いてみた。全体的に薄く曇った感じになったものの、大きな傷は取れ、CDプレイヤーで聴いても音飛びがしなくなった。これも音楽を愛する俺の性分を示すものだと思ってくれ。

このCDには、ドイツ語と英語、フランス語による、ラジスラフ・クビークやトリオ・リヴィニウスら演奏者に関する36ページの解説、そして「Wrote - メゾソプラノとオーケストラのための3つの歌曲」の楽譜がパンフレットの形でついている。col legnoレーベルの簡単な紹介もある。col legno(コル・レーニョ)は現代音楽の専門として、Wergoと並んで知られたレーベルである。1950年以降の作品を主として取り上げている、col legnoとはイタリア語で「With the wood」という意味で、弦楽器を弓の毛ではなく棒の部分で弾く(叩く)特殊奏法のことである、などと書かれている。辞書を片手にこうした解説を読みながら音楽を聴くのも楽しいものだ。

このCDは1991年に発売されたドイツ盤だ。(20070112/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

Arcana, Integrales, Deserts / Edgard Varese アルカナ,8弁雌雄両性花,捧げ物,積分,砂漠

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エドガー・ヴァーレーズには「作曲家」という言葉より「作音家」という言葉がふさわしい。まるでおもちゃ箱をひっくり返したような音楽だ。目の前にある気に入ったおもちゃを手当たり次第に手にとって遊び、放り投げる。まさに、これこそ現代音楽の名がふさわしい。音楽の3つの基本要素は、リズム・メロディー・ハーモニーだと子供の頃に習った気がするが、ヴァーレーズの音楽はリズムもメロディーもハーモニーも真っ当ではない。リズムは蹴躓きつんのめり、メロディーはぶった切られ、ハーモニーは不協和音しかない。

想像力をかき立てるタイトルで有名な「Integrales(積分)」では、聴き慣れたフレーズらしきものが現れて気を許すとたちまち足元をすくわれてひっくり返されたりするのだが、まだ余裕を持ってヴァーレーズの音の遊びにつきあうことができる。やはりヴァーレーズらしさを最もよく味わうことができるのは「アルカナ」であろう。18分36秒の音の洪水に身をまかせると、音楽というものの価値感すら変わってくる。

Desertes(砂漠)は、14の管楽器とピアノ、5つのパーカッション、そして2トラックのテープのために書かれた音楽だ。リアルに演奏される楽器の音にまじって録音されたテープ音が重なってくるが、飛行機のプロペラ音や機械のモーター音、機関銃を連想させる音があるなど、やや時代的には古い印象を受けることは否めない。もし今日作曲されるとするならば、プロペラやモーターをコンサート会場に持ち込んだり、演奏者に機関銃を持たせて撃ちまくるように書かれるはずだ。

それにしても「積分」は1924年から1925年に、アルカナは1925年から1927年にかけて作曲された、つまり今から80年も前に作曲されたということに驚く。80年前の聴衆は、これらの音楽を、どう、受け止めたのだろう。それにしても現代でさえ、もしヴァーレーズの音楽を今までに聴いたことがないのならば、これらの音楽を楽しむことができる域に達するには、幾度も聴き込まなければならないだろう。ヴァーレーズの音楽は、そうやすやすと喜びを与えてはくれない。

録音は2000年の4月と5月。カトヴィツェ、グジェゴシュ・フィテルベルク・コンサートホールで演奏されたもの。演奏はポーランド国立放送交響楽団。指揮はクリストファー・リンドン・ギー。2001年にNAXOSより発売されたEC盤だ。(20070111/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

Thema and Variations for Piano and Orchestra, Sa-Mai, U-Mai, Danza Rituale e Finale / Yoritsune Matsudaira ピアノとオーケストラのための主題と変奏,ダンス・サクレとダンス・フィナル~ダンス・サクレ(振鉾),左舞,右舞,ダンス・サクレとダンス・フィナル~ダンス・フィナル(長慶子) / 松平頼則

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松平頼則は伊福部昭とともにチェレプニンによってその名前を知られるようになった。1935年にパリで行われた日本人の作曲家のコンクールで第一回チェレプニン賞には、第一席に伊福部昭の「日本狂詩曲」が、第二席に松平頼則の「パストラル」が選ばれた。

伊福部昭も松平頼則もともに日本的な表現を音楽の中に追求したが、その姿勢は全く違う。伊福部昭が炎のようにたぎる心を持っていたとすれば、松平頼則は氷のように冷徹な心で音楽に向き合ったように思える。伊福部昭が赤であるとすれば、松平頼則は白である、と言ってもいい。そして赤と白は、ともに日本を象徴する色である。

「ピアノとオーケストラのための主題と変奏」はまだロマン主義の影響が色濃い作品であるが、1957年に作曲された「右舞」そして1958年の「左舞」では、まさに日本の音楽以外のなにものでもないという域に達している。松平頼則の「白」がまぶしく感じられる。

古代豪族を祖先にもちながら、北海道の官吏の子として生まれ、幼少期にアイヌの文化に触れ育った伊福部昭と、東京に宮内省狩猟官を務める華族の家に生まれ、戦争、国家主義から個人主義への社会の変化に敏感にならざるを得なかったであろう松平頼則の、日本に対する思いの違いでもあろうか。

このCDには片山杜秀による詳細な解説がある。この解説は、松平頼則の音楽を理解するための大きな手掛かりとなるだろう。録音は2001年7月29日と8月2日にかけて大阪のセンチュリー・オーケストラ・ハウスで行われた。センチュリー・オーケストラ・ハウスとは、大阪府営公園服部緑地内に設けられた、大阪センチュリー交響楽団の楽団専用練習場らしい。このCDはNAXOSから2003年に発売された。(20070110/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

Arbos / Arvo Part

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アルヴォ・ペルトの音楽は宗教的である。背景として単旋聖歌やグレゴリオ聖歌などの古楽があり、実際に彼自身、宗教に傾倒していたようであり、内容的にも宗教的なものが多い。しかし「宗教音楽」という言葉はいささか不親切である。交響曲や室内楽曲といった分類ではなく、主題としての「宗教音楽」という言い方はわかりにくく、とりわけ日本人には理解し難いところがある。

そのアルヴォ・ペルトの音楽は、有名な「タブラ・ラサ」をはじめ、いくつかの作品を聴いたが、中でも一番の感動を与えてくれたアルバムは、この「アルボス」だ。まず冒頭のタイトル曲「アルボス」の神々しさに打ちのめされる。楽器群が一斉に叫び出し、ひとつひとつの音色が自己主張をしながら、全体として混沌とした音空間を構成し、一丸となって迫ってくる。曲の冒頭から終末まで、高まりも弱まりもしない。心臓が鼓動をうつように、脈々と奏でられる楽器の音に、この曲は永遠に続くのではないか、と思わせられる。時間の概念を超越した感覚を味わうようだ。

「An den Wassern zu Babel」はソプラノ、カウンター・テナー、テナー、バリトン、そしてオルガン伴奏による声楽曲。まさに聖歌的な神々しさにあふれている。「Pari Intervallo」はオルガン曲。ぽつりぽつりと変化するオルガンの音は、「アルボス」とはまた違った意味で永遠の時を感じさせる。この曲を耳にしながら、ふと、「惑星ソラリス」の流れる水に漂う水草が瞼の裏に見えた。「De Profundis」は再び声楽曲。こちらはパーカッショニストも加わっている。ここでのパーカッションはあくまでも曲の味付けとして控え目に鳴らされているが、深く地の底から響くような不思議な音である。このように声楽曲と器楽曲が交互に配置され、次に「En sang vor langen Jahren」はバイオリンとビオラの伴奏によるアルト独唱曲へと続く。

「スンマ」はアルヴォ・ペルトの作品の中でもよく知られたものである。ここではソプラノ、カウンター・テナー、テナー、バリトンの4声合唱で行われる。再び洪水のような「アルボス」が演奏され、最後はソプラノ、カウンター・テナー、テナーの3声と、バイオリン、ビオラ、チェロによる「スターバト・マーテル」で終わる。テーマ曲「アルボス」とは対極的に、じわりと心にしみる曲である。まさに神とともにある音楽だ。

「アルボス」は「樹」と邦訳される。録音は1986年と1987年。このCDはECMから1987年に発売された西ドイツ盤だ。(20070106/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

Etudes, Books 1 and 2 / Gyorgy Ligeti

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これはまるでジャズだ。「ピアノ練習曲集第1巻」の第一曲は、激しいリズムで鍵盤を叩きつける。「無秩序」という表題がつけられているが、決して無秩序ではない。秩序なきように思われる激しい打鍵の中に、美しい旋律が隠れている。激しく、優しく、そして誇らしげに高揚する。実際に最も無秩序な印象を受けるのは、第2巻の最後「無限柱」である。まるででたらめに鍵盤を叩いているように聴こえる。楽譜を見たいものだ。

リゲティの練習曲は「左手と右手で、それぞれに異なった複雑で不規則なリズムを演奏しろ」というようなものらしい。実際にピアノを手にして弾いたことがある者なら、この曲を聴く楽しみも倍増するだろう。俺はピアノを弾かないのではっきりとはわからないのだが、「無秩序」「開放弦」「妨げられた打鍵」といった表題からは、あえてピアノ演奏というものの極限を求めた楽曲であることを思わせる。

「金属」や「魔法使いの梯子」、「宙吊りで」、「組み合わせ飾り」、「悪魔の階段」、「無限柱」など面白い名前が曲に付けられている。実際に聴いてみると、それぞれなるほどと思わせられる表題だ。「妨げられた打鍵」はいかにも指がからまりそうだし、「眩暈」は本当に眩暈をおこしそうな曲だ。「悪魔の階段」はどんどん上っていく感じがするし、「宙吊りで」を聴きながら宙吊にされて揺れると気持ち良いだろう。

これらの曲は、ジャズのエッセンスが感じられるとともに、繰り返しを強調するミニマル・ミュージックの影響もみえる。「金属」をはじめ「眩暈」「魔法使いの梯子」など第2巻の曲にそれは強く感じる。リゲティは難解だと思い込んでいたので、これらのピアノ曲に出会えて本当に嬉しい。とても面白い。これだからNAXOSからは目が離せない。現代音楽に通じた人だけでなく、ジャズやロックのファンにもぜひ聴いてもらいたい。

これらの曲は2001年2月、5月、6月に、ドイツ、ザントハクセンのクララ・ヴィーク大講堂で録音された。ピアノはイディル・ビレット。このCDは2003年にNAXOSから発売された。(20070105/yoc/カルト・ミュージック・コレクション)

プロフィール

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Author:yoc
1998年から「カルト・ミュージック・コレクション」というWebサイトを始めた。これを2006年12月からblogの形で再開することにした。音楽を心から愛する者のために、俺は書く!

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